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ダービー4回目、G1のタイトルで言えば11回。
6年7ヶ月ぶりの美酒に吉岡は泣いていた。
20代でとって、ずっと空いて35歳で再び。こういうケースは過去にもあるが、たいがい先行屋や自在屋が追い込みにかわってとるのが大半だったと思う。それを吉岡は変わらぬ戦法で、しかも逃げ切りで優勝したのだから賞賛に値する。
一世を風靡した先行選手も歳とともに自在、追い込みと「転向」を余儀なくされる。
しかし吉岡を自在型と呼ぶファンは少なかろう。たとえ連対の決め手がまくりばっかりでも、吉岡は先行選手なのである、昔もいまも。
先行屋泣かせの直線の長さ、そしてバンクに年中舞っている風。2日間データどおりに逃げが潰れていた立川ダービーだったが、一転して3日目の今日は逃げ切り、逃げ残りのオンパレード。というかまくりが全然ダメな1日となった。前半のほうのレースで永井だったかな、今日の風ではまくりは無理、逃げなきゃダメな風だと言ったとか。その言葉が伝播したのか、それともさすが一流の集まり、各々で察知したか、ほとんどの自力選手が先行中心の組み立てに徹していた。あの自在屋の友定まで突っ張り先行しちゃうんですから。
競輪と風。その関係が大事なのは百も承知だが、こうもあからさまに結果が出ると、己の推理の非力さも手伝って気持ちが萎えてくる。
嗚呼、競輪はむずかしい。
清嶋彰一が逃げ切った立川ダービーの決勝戦の日、ぼくはホームスタンド(当時はこちら側にしか特別観覧席はなかった)の特観席3階にいた。競輪場の門には早朝から特観席確保のための列ができ、たしか朝7時ころには入室が許されたという、いまでは考えられない盛況ぶりだった。
第1レース開始までの長い時間で憶えているのは建物に数台しかなかった公衆電話に並ぶ男たちの姿だ(携帯電話など普及していなかった)。そばで聞くとはなしに聞いていると、そのうちの何人かが会社に今日の欠勤の理由をもっともらしく電話していた。
決勝は清嶋-山口健二-尾崎雅彦が誘導(たしか古林昭二だったと思う)をフルに使って先行、清嶋はそのまま逃げ切り、尾崎が山口を三番手から抜いて地元3人だった。
2番車の伊藤豊明から身にこたえる額の車券を握りしめて見ていたあの立川ダービーから、なんと21年が経ってしまったことになる。清嶋はすでに東京籍に在らず、尾崎はついこのあいだ現役を引退してしまった。